ひとすじのひかり

思いつくまま気の向くまま

ひとつのソース(源)からきた 〜カルマについて思うこと

 

カルマ(業)という言葉がある。
やったことの結果を引き受けるということだ。
 
 
「今、こんな目にあっているのは、昔やった何かの罪の報いである」
と信じられていることが多くて、
占い師とか、スピリチュアルティーチャーにそう言われた人もいるかもしれない。
 
 
わたしもそう思っていた時期があったし、
実際にそうなのかもしれない。
 
 
今のわたしは「それで今の状況を前向きに捉えられるなら
考えのひとつとしてそう思ってもいいかな」と考えている。
 
 
検証しようがないことなので、その正否を議論するつもりもない。
 
 
ただ、わたしはずっと「カルマ」について腑に落ちない点がある。
 
 
それは、「カルマ」というのは個の存在のもの、
つまり、「わたしがした報いはわたしが受ける」という考えである。
 
確かにそれは合理的で平等なように思える。
 
「当然の報い」という言葉もあるくらいで、
報いというのは必然であり、納得のいくものであってほしいという願望が人間のどこかにある。
 
 
 
わたしたちは相対世界に生きていて、すべての事象を二次元で判断している。
「白」か「黒」か、「善」か「悪」か、「正しい」か「間違っている」か……
 
 
理不尽なことを嫌い、
この世界が納得できるものであってほしいと願う。
 
「いいことも、悪いことも、本人が当然の報いを受ける」
 
それがいちばん、人間にとって納得できる考え方だ。
 
 
 
 
でも、本当にそうなんだろうか?
 
 
単に、この世の指導者がそう教えると人を統治しやすいから
そのように教えただけではないか、とわたしは思っている。
 
 
わたしは、生まれる前の記憶のようなものを思い出すことがある。
 
瞑想のときにも見たことがあるし、
いくつかのスピリチュアルの本でも同じような表現を見たことがある。
 
 
生まれる前、わたしたちはひとつのソース(源)にいたという記憶。
 
 
わたしがみるよくビジョンは、ひかり輝く水みたいなもので、
そこから雫のように「わたし」という魂が生み出される、というイメージである。
 
そして、この世の生を終えて、肉体を離れたら、あのひかりの水辺に還る。
 
そこには、「他者」という認識はなくて、
全部が「ひとつ」だ。
 
 
 
ヒプノセラピーのセラピストをやっていたとき、
複数のマグダラのマリアイエス・キリスト、ファラオ、クレオパトラ、釈迦に出会ったが、
わたしは、魂というのはあのひかり輝く水からきたと思っているので、不思議には感じない。
 
 
マイケル・ジャクソンも、ジョン・レノンもみな、
あの水辺に還っていって、すべてとひとつになる。
 
そしてあの魂の雫が落ちるとき、わたしたちは
ソース(源)から離れて「個」という体験をするだけだ。
 
 
 
この世の「個」という体験は、海の水が地球で冒険する旅に似ていると思う。
 
 
星の影響や気候の影響で、
波が起き、しぶきとなって岩を砕き、
あるときは、雨となって乾いた大地をうるおす。
 
 
真っ白な雲に姿を変えて人を和ませたり、
人の喉の渇きを癒すこともある。
 
台風となってすべてを洗い流してしまうこともある。
 
 
 
それは、地球という場に存在するたったひとつの水の姿にすぎないのだ。
 
 
わたしたちのからだの7割ちかくは水でできているというが、
わたしたちの肉体に存在する水もまた、地球の水の姿のひとつなのだ。
 
 
あの海を、濁流を、雲を、構成している水と、全く同じ。
 
 
わたしたちの肉体もまた、水の循環の中に存在しているだけなのだ。
 
 
わたしたちはこの世の生を終えたら、
水蒸気となって大気中に放散される。
 
わたしがときおりみる水辺は、すべての水の源なのだ。
 
 
 
 
そこで、カルマを考えてみよう。
 
果たして「個」のカルマは存在するのか?
 
 
人間の関わりにおいて、もしくはこの地上のルールにおいてはありそうである。
 
現世において、意地悪をする人のことを嫌うなど、
人間同士(ときには動物も)に関しては関連性がありそうだ。
 
 
 
でも前世はどうだろう?
 
たしかに、「なんとなく」虫が好かない人というのは存在したりする。
 
 
でも、あのひかりの水辺に還り、「個」というものが存在しないところから、
わたしたちはやってくる。
 
だとしたら、イエス・キリストも、イエスを裏切ったとされるイスカリオテのユダ
あのひかりの水になってしまうのではないか?
 
あのひかりの水辺には、汚い水と美しい水など存在しない。
 
すべてが光なのだから。
 
 
 
この世には濁った水や色水がある。
よい水と悪い水が存在するように思えるし、
わたしたちの相対世界では実際にそれらは存在している。
 
 
よい水が、よいカルマ、
悪い水が、悪いカルマ、
 
と呼ばれているのだと思う。
 
 
 
でも普遍意識でそれらを眺めたら「水」でしかない。
 
 
わたしは、カルマは投げかけた個人に返ってくるものばかりではないように感じている。
 
 
タンカーが座礁して、海が汚れたとして、責任はタンカーにあったとしても、
その結果はタンカーだけが負うものではない。
 
たしかにタンカーの側の責任を問うことができたとしても、
 
 
その影響は海域に関わるすべての人、地球全体に及ぶ。
 
わたしたちは、現実を「自分は関係ない」と拒絶することはできないのだ。
 
 
 
わたしたちは、人との関わりの中で「責任」を明確にして
それを負うように求めることができたとしても、
結果そのものは社会全体、地球全体で負わなければならない。
 
 
すべては、人類全体、地球全体の問題なのである。
 
 
 
同じようにカルマもそのような側面があるように思う。
 
 
わたしたちの置かれている環境は、わたしたち全員で責任を負う。
 
この世では「やった誰か」の責任を問えても、それははかない現世のことだけである。
 
 
 
わたしたちは、自然環境に、世界経済の状況に、貧困に、
無意識であっても関わりあっている。
 
 
あのひかりの水辺から生み出されたひとしずくのわたしたちが、
どのような世界をつくるのか、それが自分の生まれてきた意味なのだと思う。
 
 
ひかりの水辺では、ひとつでしかない水は、この世ではいろんな姿に変化する。
泥水にもきれいな色水にも、滋養豊かなスープにもなれる。
 
 

わたしはどう生きたいか、真剣に考えてみたい。