ひとすじのひかり

思いつくまま気の向くまま

表の神様と裏の神様

日本の神社をお詣りするようになったのは、平成25年にパートナーとの記念旅行として高千穂峯に上ったことがきっかけでした。

それまでも、スペインの巡礼路であるカミーノ=デ=サンチアゴを歩いたり、インカ道を山越えしてマチュピチュに行ったり、レムリアの聖地と言われてヒーラーが集まるマウントシャスタなどに旅していましたが、神社には興味がなかったのです。


高千穂峯は、坂本龍馬が新婚旅行で訪れたと言われている場所ですが、頂上に突き立てられているご神宝である天の逆鉾を引き抜くという「いたずら」をしたせいで、ほどなくして亡くなってしまったとも言われています。


私はもともと自然が好きなので、神社のあるような山や森には出かけていたのですが、鳥居や社殿に魅力を感じず、近くを通りがかっても避けていたのでした。


私が好きなのは、沖縄の斎場御嶽や久高島のような鳥居のない神域であり、富士山や白山のようにお山そのものであって、そこには神様を感じるものの、鳥居の中の、小さな社殿は、それがどんなに美しいものであっても、お山そのものがもつダイナミックなエネルギーは感じず、少々窮屈で不自由な感じがしていたからだと思います。


ですが、6月に高千穂峯に上り、霧島六社をお詣りして、その後出雲大社伊勢神宮と縁あってめぐることになり、その年の秋には明治神宮のお膝元に引越しして、毎朝参拝するようになったのでした。


明治神宮は100年の年月をかけて、人の手によって自然の森を作ろうという壮大な計画のもと、作られた美しいご神域を抱えた神社です。

わたしはこの森に時折顔を見せる珍しいキノコや、可憐な草花に魅せられ、また自然の森の息吹と朝日の織りなす美しい光景にすっかり心を奪われ、毎朝お詣りに行くようになりました。


お願いごとがあったわけではありませんし、社殿には相変わらず興味がありませんでしたが、毎朝お目にかかる年長の知人にならって、鳥居の前で一礼し、作法に則って参拝しているうちに、参拝の作法に慣れてきて、他の神社にお邪魔したときも、拝殿で自然にお詣りするようになりました。


思えば、高千穂峯に上がる前にも、神社で参拝する機会はあったのです。

富士山でワークショップをやっていたとき、たまたま訪れた神社で、思いがけず拝殿に上がって正式参拝させていただく機会をいただいたのです。

その時の私は玉串拝礼自体が初めてで、しかも通常は宮司様しか上がられない神様に近い場所に上がってお詣りさせてくださるということで、「作法がわからないので」とご辞退申し上げたわけですが、なぜか女性の神職さまから、「これから母親になって子どもを育てていく若い女性が(お連れしているお客様のことです)、こんなこともわからずにどうするのですか!!」と叱られ、ひとつひとつの作法を細かくご指導賜りながら拝礼させていただいたのでした。

そんなお導きもありながら、少しずつ少しずつ、神社とのご縁を深めていきました。

社殿にお詣りするようになっても、特に神様にお願いごとをする習慣のなかった私ではありましたが、祭神や由緒、そして祭りについて少しずつ興味をもつようになりました。

 

伊勢神宮(内宮)は天照大神、外宮は豊受大神猿田彦神社猿田彦大神出雲大社大国主命氷川神社は素盞嗚尊など、古事記や日本書記に描かれている、よく知られた神様がお祀りされています。

村の人たちが大切にしている小さな神社の神様も、ご祭神は記紀にあるメジャーな神様方ですが、「◯◯大権現」など別のお名前も書かれてあったりするのです。

神仏習合の時代に観音様や不動明王として祀られていたのも同じでしょうか。

地元で古くからお祀りしていた神様の名前が、記紀に描かれるメジャーな神様と習合していったのかもしれません。


面白いことに、たとえば猿田彦大神をお祀りしている地域には、◯●大権現とか、◯△大神みたいな神様がいらして、その昔、その土地を治めていた豪族がいて、最終的には別の種族に土地を譲ったというような伝説があって、それは伊勢で聞いた猿田彦大神の話と同じようなものだったりするのです。

以前その土地を治めていた豪族は例えば鬼だったり、天狗だったりで人間に迷惑をかけたりするのですが、神様がやってきて、一件落着、めでたしめでたし。
そしてその正義の神様をお祀りしているのが神社というわけです。

正義の神様にお願いすれば、家内安全、無病息災、金銀融通、願いを叶えてくださるということなのでしょう。


少なくとも、お詣りしている方々の考えを直接お聞きしてみるとそんな感じでした。
これを「表の神様」と呼ぶことにしましょう。


でも、祭りをみるようになると、その考えには違和感をもつようになりました。
祭りの主役は、鬼や天狗、真っ赤に燃える富士山など、恐ろしいものばかりだからです。

ですから、私は子どもの頃からお祭りが怖かったのです。
ストーリーも怖いし、音も大きいし、集まる人たちも怖くて、祭りは苦手でした。
大人になって旅をしながら祭りをみていても、やはり、恐ろしい形相のお面をつけた人が村にやってくるとか、真っ赤に燃える富士山を地面に叩きつけるとか、怖くなるものが多いのです。

今わたしたちが知っている桃太郎の昔話は、桃太郎が鬼退治をして宝を持って帰るのがメインストーリーですが、おまつりでみるそれは、鬼の大暴れを中心に描かれている感じです。

まるで、昔いた鬼だったり、蛇だったり、災難を起こすなにかの存在を伝承しようとしているかのようです。


何度かそのような体験をして、もしかしたら、退治されてしまった鬼や蛇の供養をするためのまつりであって、お祀りされている神様というは、鬼や蛇の方なのかもしれないと思うようになったのでした。
これを「裏の神様」と呼ぶことにします。


わたしがおまつりが苦手なのは、そもそも「表の神様」のことしか見ていないからで、「裏の神様」の存在を認めていないからだと思うと腑に落ちるのです。
そして、神社の社殿は山のエネルギーに比べて小さく、閉じ込められているような気がしてならないことも「裏の神様」だからだとしたら、納得がいきます。
「表の神様」であれば、そもそも「お鎮まり」していただく必要はないわけですから。


最近続く、地震や台風などの気象異常で、「神仏の力が弱った」と言われることもありますが、私たちは、祈る神様を違えているのかもしれません。


「表の神様」にお願いすることばかりで、「裏の神様」に対する鎮魂と感謝を忘れてはいないでしょうか。
すべてのことには、表と裏があります。
2つで1つ、同体です。
それが宇宙の真理です。


なんでも「いいこと」と「わるいこと」にわけ、「いいこと」だけをよしとしている、この考えが、バランスを崩しています。

本当は、「いいこと」が、「わるいこと」を生み出しているにすぎないというのに。


「表の神様を作った」から、「裏の神様ができた」のです。
真実は、そのような過去があって、今がある、それだけです。


今もし、神様の力を必要としているのなら、自分の地域の神様の「表の神様」と「裏の神様」が生まれたストーリーに注目してください。

そして、善悪の判断を挟まずそれを眺め、今ある幸せに感謝しましょう。

今までは、特別に選ばれた人たちが、神様方を慰め、鎮めてこられました。
その代わり、神様の力も、選ばれた人たちのものでした。


新しい世の中では、わたしたちには祈る自由があり、またその責任が生まれます。
神々の世界が開かれるというのは、そういうことなのだと思います。